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売り越し
戦争が終結(紀元前249年)に近づいたころ、カルタゴはハミルカル・バルカ将軍(ハンニバルの父)をシチリアに送った。ハミルカルはほぼシチリア島全土の支配を獲得した。ローマはこの状況を打開するために必死になって、独裁官の選出まで行った。しかしながら、陸上戦よりも海戦の戦果の方が決定力を持つようになり、シチリアにおけるカルタゴの成功は意味を失っていった; ハミルカルはシチリアで無敗を続けたが、それも、紀元前241年の外貨預金 の海戦におけるローマ軍の勝利の後では無意味だった。 シチリア島内の行動が難しかったため、第一次ポエニ戦争の舞台はほとんどが海上で、戦況を決める重大な戦いもまた海戦だった。また、海戦によって敵の港を効率的に封鎖すれば、島内の軍への増援と補給を封鎖できた。 両陣営ともに、艦隊は市民の資金で建造されていた。このため、カルタゴとローマの戦力は資本力の許す範囲に限られ、それがついには戦争の行方を決めることになった。 第一次ポエニ戦争の開戦当時、CFD は海戦の経験を実質的には持っていなかった。一方、カルタゴは、過去何世紀にもわたる海上貿易のおかげで、豊富な海の経験を持っていた。しかし、発展を続ける共和政ローマは、戦果を上げるためには地中海の支配権が重要だとすぐに看破した。 ローマは、 紀元前261年のアグリジェントの勝利の後に、最初の大艦隊を建造した。一部の歴史家は、ローマの持つ船舶技術力は低かったと考え、戦艦の設計は捕らえたカルタゴ三段櫂船や五段櫂船か嵐でローマの海岸に打ち寄せられた船をそのまま真似ただろう、と推測している。また、他の一部の歴史家は、海賊から沿岸を警備するために、ローマはすでに船舶技術を持っていただろう、と指摘している。 開戦当時の船舶技術の程度がどうあれ、ローマは急速に適応していった。つまり、短期間で数百隻もの艦隊を就航させるようになっていったのである。 おそらく、少ない経験を補って、不動産投資 された陸上戦術を海上でも使うために、ローマ軍は新しい船に特殊な乗船器具カラス装置(en:corvus)を装備した。当時の海戦では尖った船先をぶつける方法が常識だったが、カラス装置を装備した船は、船体を敵船の横側につけ、船橋を渡して先端に付けた爪で敵船を捉え、乗船隊(いわば海兵隊)として軍団(レギオン)を送った。 新兵器の効果は、海戦においてローマが初めて勝利したミレ沖の戦いで証明された。その後数年間この装置は活躍を続け、特にエクノムス岬の海戦において大きな役割を果たす。 カラス装置の出現によって、カルタゴは軍事戦術を立て直す必要に迫られた。しかし、カルタゴは有効な戦術を見つけられず、海上ではローマが優勢になった。しかし、カラス装置は軍船の操作性を悪くしたので、後年ローマの海戦経験が増えるにつれ装置は使われなくなった。 戦争の間に、共和政ローマは多くの海戦で勝利したものの、嵐と戦闘によってほとんどの船と船員を失っていった。少なくとも2回 (紀元前255年と253年),全艦隊を悪天候で失う事件が発生した。 船首のカラス装置が重いために船は不安定になり、悪天候に合うと沈没していった。戦争の終盤になると、ローマは高価な艦隊を新しく建造する資金を出し渋るようになって、カルタゴが海上で優勢になった。ところが、カルタゴには戦争に反対する一派があり、紀元前244年に大地主の貴族大ハンノがその党首の座につくと、戦争は間もなく終結すると考えて、艦隊を解散し始めてしまった。これによって、ローマ軍は海上の優位性を奪い返す機会を得た。ローマは、裕福な市民からの寄進によって新たな艦隊を建造し、エーガディ諸島沖の海戦(紀元前241年3月10日)で第一次ポエニ戦争の決着をつけた。この海戦では、執政官ガイウス・ルタティウス・カトゥルス率いる新しいローマ艦隊が勝利を挙げた。カルタゴは艦隊のほとんどを失い、新船を建造する経済的余力もなく、船員の人手を探す力も失った。ハミルカル・バルカも、艦隊が無くてはカルタゴから切り離されてしまい、降伏せざるを得なかった。 23年間続いた戦争の末、ローマが第一次ポエニ戦争に勝利し、カルタゴに代わって地中海を支配する国になった。戦争の直後は、両陣営共に財政も民力も疲弊した状態だった。領土の境界線は、地中海を結ぶ直線と彼らが考えた境界線をひいて最終確定した。ヒスパニア、コルシカ島、サルデーニャ島とアフリカはカルタゴのものとして残されて、その線の北側は全てローマに引き渡された。ローマが勝利した要因は、敗北を断固として拒否し続け、完全な勝利だけを受け入れたことが大きい。さらに、共和政ローマは戦費のために個人的投資を集める力が高く、市民の愛国心を呼び起こして船と船員の資金を供給させたが、この能力も戦争の行方を決定付けた要素の一つである。カルタゴと比較すると違いは明確で、カルタゴの貴族達は、公の利益のために私有財産を危険にさらすことに対しては明らかに及び腰だった。また、第一次ポエニ戦争の結果としてローマ海軍が正式に誕生したが、それは、この後ローマが属州を拡張するために大きな力となった。 歴史の情報源には偏りがあって、たいていローマを持ち上げて書かれているので、投資信託 の戦死者の正確な数は判断し難い。 いくつかの資料によると(地上戦の戦死者数を除く) ローマは700隻の船を失い、少なくとも乗組員の一部を失った(主に悪天候と未熟な船長が原因) カルタゴは500隻の船を失い、少なくとも乗組員の一部を失った。 各船の乗組員はおよそ100名だった。 やはり不確実だが、両陣営ともに戦死者数は甚大だったらしい。ポリュビオスの記述によると、 アレクサンドロス3世の戦闘をはじめとする当時の戦争史の中でも、死傷者数においてはこの戦争が最も破壊的だった。商品先物取引 は、紀元前3世紀に行われたローマの人口調査結果を分析し、戦争中にローマは5万人の市民を失ったと述べている。この数字には、他国の援軍や市民権を持たない兵士は含まれていない。 講和条約はローマが起草したもので、交渉できる立場に無いカルタゴにとって重く厳しいものだった。以下にローマの要求を示す: カルタゴはシチリア島から撤退する。 カルタゴは身代金なしで捕虜を解放し、一方、自国の捕虜には重い身代金を支払う。 カルタゴはシラクサとその同盟国を攻撃しない。 カルタゴはシチリア島の北の諸島をローマに譲渡する。 カルタゴは2200タレントの賠償金を10年分割で支払い、その上、1000タレントの賠償金を即刻支払う。 さらに、両陣営の同盟国は互いに攻撃しないことと、相手領土内で軍隊を組織しないことを決定した。これによってカルタゴはローマ人傭兵の兵力を入手できなくなった。 戦争の後、カルタゴは資力を事実上失った。ハンノ・ボミルカルは解散した軍隊への支払いを拒否したので、傭兵の乱とよばれる内戦が勃発した。激しい戦闘の末、ハミルカル・バルカとハンノ・ボミルカルが協力して傭兵軍を破った。しかし、ローマは好機を逃さず、この闘争のすきにカルタゴからコルシカ島とサルデーニャ島を奪い取った。 第一次ポエニ戦争におそらく最も直結した政治的な結果は、カルタゴの大きな海上支配力が失われたことである。講和条約で締結させられた条項のため、カルタゴの経済的立場は弱められ、都市の復興は難しくなった。そのうえ、ローマが課した賠償金はカルタゴの資金に更なる負担となったので、カルタゴは、ローマに支払う資金を得るために、勢力のおよぶ他の地域に目を向けざるをえなくなった。これと比較すると興味深いのが第一次世界大戦で敗戦したドイツで、講和のためにヴェルサイユ条約を結んだ後、ドイツの政策は第二次世界大戦に導かれることになった。 ローマにとって第一次ポエニ戦争は、イタリア半島を越えて領土拡張を始めた記念碑となった。シチリアは、同盟国ではなく、プロコンスルが支配する初めてのローマ属州となった。シチリアはまたローマにとって重要な穀物産地となった。 紀元前241年 ? 3月10日、エーガディ諸島沖の海戦が起こり、ローマが決定的な勝利をあげた。カルタゴは講和条約を締結せざるをえず、第一次ポエニ戦争は終戦した。 第二次ポエニ戦争(だいにじポエニせんそう、羅:Secundum Bellum Punicum、英:Second Punic War)とは、共和政ローマとカルタゴとの間で紀元前219年から紀元前201年にかけて戦われた戦争。ローマ、カルタゴ間の戦争はカルタゴの住民であるフェニキア人のローマ側の呼称からポエニ戦争と総称されるが、この戦争は全3回のポエニ戦争の2回目にあたる。 またこの戦争においてカルタゴ側の将軍ハンニバル・バルカはイタリア半島を侵略し、多大な損害と恐怖をローマ側に残したため、この戦争はハンニバル戦争とも称される。 第一次ポエニ戦争の結果、カルタゴはシチリア島をローマに割譲し、地中海における海上覇権を大きく減退させた。カルタゴはこの損失を補うため、ヒスパニア(イベリア半島)の征服に取り掛かった。ハミルカル・バルカによってヒスパニアの征服と植民地化が開始され、彼の死後は娘婿のハスドルバルが事業を継続した。紀元前226年、ハスドルバルはローマとの間にエブロ川以北には進出しない旨の誓約を交わした。 紀元前221年、ハスドルバルが暗殺されると、ハミルカル・バルカの息子ハンニバルが後継者となった。ローマの伝記作者に拠れば、ハンニバルは幼い頃からローマに対する憎悪を教え込まれ、攻撃の機会を狙っていたという。紀元前219年、ハンニバルはサグントゥムを攻撃した。サグントゥムはエブロ川以南の都市であったが、ローマとの同盟を結んでいたため、ローマは攻撃停止を求める使節団をカルタゴに派遣した。しかし、両者が交渉をしている間にサグントゥム陥落の一報が到着、クィントゥス・ファビウス・マクシムスは使節団を代表して宣戦を布告した。 ローマを屈服させるにはイタリア本土を直接攻撃するしかない。しかし、制海権がローマに握られている以上、海上からの侵攻は困難である。さらにローマはカルタゴの侵入が予想されるイタリア西部、南部に兵力を配置していた。ここでハンニバルはアルプス山脈を越え、ローマの防備の薄い北方から侵攻するという前代未聞の発想に至る。 ハンニバルの進軍路 アルプス山脈を越えるハンニバルの軍紀元前218年5月、弟のハスドルバルにヒスパニアの統治を任せたハンニバルは、カルタゴ・ノヴァ(現カルタヘナ)を進発し、海岸線沿いに南フランスを進んだ。ローヌ川での戦いを経て9月、ハンニバルは約40,000名の兵士と30頭の戦象を率いてアルプス越えに挑んだ。なお、この際にカルタゴ軍が辿ったルートの詳細は不明であり、現在でも諸説分かれている。9月のアルプスはすでに冬季といってよく、ケルト人の部族との戦いもあり、大軍での越山は困難を極めた。イタリアに到着した際のカルタゴ軍の兵力は26,000名(歩兵20,000名、騎兵6,000名)、戦象はわずか3頭となっていた。